永井 隆(ながい たかし)  略歴

  明治41(1908)年2月3日、島根県松江市生まれ。翌年、同県飯石郡飯石村(現 雲南市三刀屋町)に移り住み、幼少期を過ごす。  その後、松江中学校、松江高校へ進学し、昭和3(1928)年、長崎医科大学に入学する。
 昭和7(1932)年、同大を首席で卒業。内科医を専攻するつもりでいたが、急性中耳炎にかかり、聴診器が使えなくなる恐れあることから、これを断念。かわりに選んだのは、最も不得意としていた放射線医学の道であった。

 生涯2度の従軍(満州事変、日中戦争)から無事帰還、昭和15(1940)年には長崎医大助教授に昇進、昭和19(1944)年には医学博士となるも、昭和20(1945)年6月、過度の散乱放射線被曝による慢性骨髄性白血病を発症、「余命3年」と診断される。そしてその2ヶ月後の8月9日、長崎医科大学付属医院内にて原爆被爆し重傷を負うが、直後より2ヶ月間にわたり被災者の救護に奔走した。
 同年10月、再び浦上の地に戻り、再建の道を歩むが、翌昭和21(1946)年暮れには病状が悪化し、寝たきりの生活を余儀なくされる。

筆を手にして微笑む隆

 ~ 「倒れてのち始む」
 病床に倒れたと言えども、まだ働く部分を探したら手と目と頭があった ~
(『いとし子よ』より)

 “書く”道を選んだ隆は、43歳でその生涯を閉じるまでに、「長崎の鐘」や「この子を残して」など17冊に及ぶ著書を書き上げ、恒久平和実現を広く訴えた。著作で得た収入の大半を、隆は長崎市の復興や浦上天主堂の再建のために寄付。また、愛する浦上の地を再び花咲く丘にしようと、桜の苗木1,200本余を寄贈したり、図書室「うちらの本箱」を設けて、戦争で家族や住む家を奪われたために心のすさんだ子ども達に生きる希望と勇気を与えた。 昭和24(1949)年12月、長崎市はこれらの功績を称え、戦後初の名誉市民の称号を隆に贈った。また、隆の著作は広く日本国民を勇気づけたとして、昭和25(1950)年には国家表彰も受けた。

 昭和26(1951)年4月末、「乙女峠」脱稿を最後に容態が急変、同年5月1日午後9時50分、死去。 余命宣告から実に6年後のことであった。
 5月3日のカトリック浦上教会葬に続き、5月14日には長崎市公葬が営まれ、現在、坂本国際墓地(長崎市)の南側墓地入口の一角に、妻 緑とともに眠っている。