1908 | 明治41年 | 2月3日 | 島根県松江市苧町にて出生、翌年飯石郡飯石村(現、雲南市三刀屋町)に移住 |
1920 | 大正 9年 | 松江中学校入学 | |
1925 | 大正14年 | 松江高校入学 | |
1928 | 昭和 3年 | 長崎医科大学に入学 | |
1930 | 昭和 5年 | 3月29日 | 母ツネ逝去 |
1932 | 昭和 7年 | 3月 | 長崎医大卒業 急性中耳炎に罹患し内科医を断念、物理的療法科入局 放射線医学を専攻 |
1933 | 昭和 8年 | 2月1日 | 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊、満州事変に従軍 |
1934 | 昭和 9年 | 2月1日 | 帰還し物理的療法科に復帰する |
6月 | カトリックの洗礼を受ける 霊名パウロ | ||
8月 | 森山 緑と結婚 | ||
1937 | 昭和12年 | 長崎医大講師となる | |
7月 | 日中戦争に軍医として従軍 | ||
1939 | 昭和14年 | 2月4日 | 父 寛(のぶる)逝去 |
1940 | 昭和15年 | 帰還 長崎医大助教授 物理的療法科部長 | |
1944 | 昭和19年 | 医学博士 | |
1945 | 昭和20年 | 6月 | 白血病判明 余命3年と診断さる 白血球10万8千(正常値7千)赤血球300万(正常値500万) |
8月9日 | 原爆被災 右側頭動脈切断の重傷を負うも、長崎医大にて3日間の救護活動を行う | ||
8月11日 | 自宅焼け跡から夫人の遺骨を拾って埋葬する | ||
8月12日 | 三山町木場に赴き救護班「長崎医科大学 第十一医療隊」を組織、10月8日までの58日間で125名の原爆傷病者を救護する | ||
8月15日 | 終戦 | ||
9月20日 | 医療隊を解散、教室員を帰宅させる 再び出血のため倒れ、危篤状態が続くが、10月初旬奇跡的に回復 |
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1946 | 昭和21年 | 1月28日 | 長崎医大教授 |
8月 | 「原子時代の開幕」(のちの「長崎の鐘」)脱稿 | ||
11月17日 | 長崎医学会総会で「原子病概論」と題して研究発表後、病床に伏す | ||
1947 | 昭和22年 | 2月20日 | 「世界と肉体とスミス神父」発行(翻訳を担当) |
1948 | 昭和23年 | 1月17日 | 「亡びぬものを」脱稿(昭和23(1948)年9月刊行) |
3月 | 如己堂が完成し、移り住む | ||
3月25日 | 「ロザリオの鎖」脱稿(昭和23(1948)年6月刊行) | ||
4月30日 | 「この子を残して」脱稿(昭和23(1948)年9月刊行) | ||
8月 |
長崎医大休職 「生命の河」脱稿(昭和23(1948)年12月刊行 |
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10月18日 | ヘレン・ケラー女史が如己堂を訪れる | ||
12月 | 「九州タイムズ」の文化賞受賞 賞金を元手に浦上千本桜を植える | ||
1949 | 昭和24年 |
1月 |
「長崎の鐘」発行 |
3月 | 「花咲く丘」脱稿(昭和24(1949)年6月刊行) | ||
5月27日 | 天皇陛下に拝謁 | ||
5月30日 | 教皇特使ギルロイ枢機卿の見舞を受ける | ||
8月1日 | 長崎市長の表彰を受ける | ||
9月30日 | 長崎医大教授退職 | ||
10月30日 | 「いとし子よ」発行(昭和24(1949)年11月刊行) | ||
12月3日 | 長崎市名誉市民の称号を贈られる | ||
1950 | 昭和25年 | 5月14日 | フルステンベルグ大司教(駐日教皇特使)の見舞を受ける 教皇からロザリオ贈られる |
6月1日 | 国会の表彰勧告に基づき吉田首相の表彰を受け天皇から銀盃一組を賜う | ||
8月 | 松竹映画「長崎の鐘」が完成し、如己堂前庭で試写 | ||
1951 | 昭和26年 | 4月22日 | 最後の著書「乙女峠」脱稿(昭和27(1952)年9月刊行) |
4月25日 | 右肩甲部に内出血 執筆ができなくなる | ||
5月1日 | 長崎医科大学附属医院に入院 午後9時50分逝去(43歳) | ||
5月3日 | 教会葬(カトリック浦上教会) | ||
5月14日 | 長崎市公葬 坂本国際墓地入口一角に葬る | ||