第4章 如己堂(にょこどう)~如己愛人
白血病の悪化により床に臥した隆は、病床から原子病の研究と執筆活動に入る。
昭和23(1948)年春、一面焼け野原となり消えた町は麦畑に変わり、やがてバラックが建ちはじめ人々が浦上に定住し始めるころ、浦上の人々やカトリック信者仲間達の厚意によって、隆のための新しい住まいが建てられた。
隆はこの小さな庵に、聖書の一節「己の如く隣人を愛せよ」という言葉から、「如己堂(にょこどう)」と命名したのであった。さらに、隣人愛による真の恒久平和の実現の思いを「如己愛人(にょこあいじん)」の文字に込め、わが子、そして今を生きる人への遺訓とした。
日用道具と原稿用紙、研究書や筆、絵の具などが手の届く位置に置かれていた。
このわずか二畳の部屋の中から隆は、浦上の人々をはげまし続けた。
「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命(せいめい)の河」「長崎の鐘」などの小説や随筆を発表し、「この子を残して」は映画化、「長崎の鐘」はレコード化され、戦後の名曲として今に歌い継がれている。
「私の寝ている如己堂は、二畳ひと間の家である。私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とカヤノの住居である。(中略)神のみ栄えのために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病む身にとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家の名を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」
(永井 隆著「この子を残して」より)