第2章 原子雲の下
太平洋戦争も激しくなり、永井一家も親子離ればなれの暮らしが続く。そして敗戦の時が近づく昭和20年(1945)6月、不調を訴えた隆に余命3年の診断がくだされた。浴び続けたラジウムの放射線により、隆の五体は白血病に犯されていた。
そして、更なる悲劇が隆を襲った。蝉時雨の暑い真夏の昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、真っ白い光り、すさまじい爆風と共に超高熱が走った。米軍機から長崎に原爆が投下され、浦上上空で炸裂したのである。
隆はこのとき、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学付属医院本館2階のラジウム室で、これから始まる講義の準備中だった。
幸い一命は取り留めたものの重傷、義母の森山ツモと二人の子ども:長男 誠一(まこと)、次女 茅乃(かやの)は、のちに救護所を開設する三ツ山に疎開しており無事だったが、当日自宅にいた妻 緑は爆死した。
原爆によって破壊された長崎医科大学。附属医院本館2階(赤丸のところ)で隆は被爆した。
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。
見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く動けない体となってしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)